正治元年(一一九九年)、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が死亡し、頼家が二代将軍となりました。
幕府では武将らの勢力争いが激しくなり、鎌倉幕府の重臣であった梶原景時はその争いにやぶれ、鎌倉を追われました。
景時は領地の相模國一之宮(神奈川県寒川町)から脱出し、一族や家来を連れて上洛しようとしました。
幕府方は景時一行を阻止しようとし、各地の豪族に討伐を指令しました。まず清見ヶ関(興津)で戦いが始まり、高橋・大内方面(清水区)に戦場が移りました。
景時一行もよく奮戦しましたが、長時間の戦いの疲れと、地形に慣れていないため、各地で家来の武士たちは討ちとられました。
特に、豪勇無双と言われた三男景茂が入江一族の吉川小次郎に討たれたことで景時も覚悟をきめ、長男景季・次男景高と共に、この瀬名の地で自害したと伝えられています。
「矢射タム橋」の由来は、この戦いのとき、このあたりで景時一行が地元の侍らと矢を射あったとの言い伝えによるものです。
梶原一族の廟所として建立された梶原堂は、現在は大内地区に再建され、「梶原景時ゆかりの地」として静岡市の文化財に指定されています。
景時終焉の地として伝えられる梶原山の山頂付近は、現在は梶原山公園として整備され、園内には終焉の地記念碑と景時親子供養塔が設置されています。また梶原山公園は、その見事な景観から日本夜景遺産として認定されており、富士山から三保半島、駿河湾、遠く伊豆半島を望むことができる美しい眺望が来園者を魅了しています。
終焉の地記念碑・景時親子供養塔
梶原山公園の夜景(日本夜景遺産)
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